昭和18年代  アメリカ B29を量産!

 

 昭和17年のミッドウェー海戦の負け戦以来、前線各地で敗退や玉砕のニュースが流れ続ける中、アメリカ軍は4発のエンジンを付けた、とてつもなく大きな「 超空の要塞 」とも言える「B29」を量産し、やがて日本本土に空襲に来ると言う情報が流れていました。 

 

 事実、アメリカ軍は日本が失ったサイパンに1ヶ所、テニアンに2ヶ所、グァムに3ヶ所、計6ヶ所にB29が発着する基地を破竹の勢いで建設し、翌年末までには3000機余が配備され、この後昭和20年の終戦にかけて、日本全土の諸都市を昼夜を問わず空襲し、焼夷弾や爆弾で無差別大爆撃を展開していったのです。

 その結果、大変な被害が出ました。 死者約50万人、負傷者約80万人、羅災者約950万人とも言われています。

 

  この年(昭和18年)の半ば頃には、情勢は益々緊迫したものになってきました。 シンガポール攻略に沸いた国民の笑顔は、日増しに薄らぎ、今や完全に失われてしまったのです。

 

 この頃になると、軍部の圧力により言論や報道の自由は勿論のこと、国民の自由な活動も禁止され、全てが軍部や政府の方針に従わなければならないようになっていたのです。

 

 また、物資の不足は特に深刻で軍需物資は勿論のこと、国民の生活必需品である、米や野菜その他の食料品の殆んどが配給制となり、衣料品や日用品等の大半は衣料切符などがなければ自由に買うことも出来ませんでした。

 おまけに、海外からの鉄の輸入が途絶えたため、武器や弾薬などを補充するため、政府は「金属回収令」と言うのを発令したのです。

これにより、街中の鉄製の橋の欄干や街路灯、お寺の鐘、仏像、銅像までが姿を消してしまったのです。 もちろん、個人の家庭にある鍋釜等の金属類も必要最小限の物を残して供出させられてしまったのです。

 

 それでも、国民の殆んどは、お腹を空かせながらも青白い顔をして「 欲しがりません、勝つまでは!」と言いながら必死で頑張っていました。


 この頃には、ボクの生活もすっかり変わっていました。

 去年の8月に弟が生まれて、ボクもお兄ちゃんになっていたのです。 

 

弟の名前は「 洋治 」、この太平洋を治めるような賢くて、強い子になって欲しいと言う父の願いだったそうです。

でも、洋治はとても泣き虫で、母かボクが傍にいないと泣いてばかりいました。 

 多分、お腹が空いていたのでしょう。 その都度、母はオッパイを飲ませていましたが、満足に食べるものも食べていないせいか、オッパイが出ないと嘆いていました。 そして、代わりにオモユを飲ませたりしていました。


 ボクもいつも、お腹を空かせていましたが、痩せ我慢をして元気一杯、配給になった少しばかりの玄米を一升瓶に入れ、ハタキの柄で突いて、精米していました。 ボクにしては結構ちからのいる大変な仕事でしたが、お兄ちゃんとしての楽しいお手伝いでした。

 

 昭和18年代半ばから20年代にかけて、食料の不足は益々深刻なものになっていき、政府が割り当てた、配給の量もどんどん減っていきました。


米だけではありません。 食べるものがない、塩は海岸から汲んできた海水を使い、砂糖の代わりには薬のような固形のズルチンやサッカリンでした。


芋、魚、卵、野菜等は時たまの配給でしか手に入らない。 それから、たしか粉末醤油の配給がありました。 でも、あれは一体何だったのだろう?