昭和18年 調布に疎開! 学徒出陣!

 この年の夏ごろには、ボクの家も大変な事になっていました。 軍部の命令で父と母、二人三脚で築き上げてきた会社を廃業し、父は徴用されて、半ば強制的に軍需工場に勤務させられることになったのです。 飛行機のプロペラ等を作っている工場だったそうです。 

 そこで、父は神田の家を売り払い、工場のある調布に小さな百姓屋を買い求めました。 そして、そこからカーキ色の国民服を着、日の丸弁当を持って、毎日自転車で工場に通っていました。

 調布のお家は、神田のゴミゴミした商店街とは異なり、見渡す限り、たんぼや畑で広々とした自然が一杯のとても素敵な所でした。

お家の裏には水の澄み切った小川も流れ、小さな魚も泳いでいました。

裏庭には、結構広い畑もあり、家の周りには栗の木や柿の木等が家を取り囲むように立っていました。  そして、遠くの方には、ボクの大好きな電車の走っているのも見え、晴れた日には富士山がくっきりと浮かんで見えました。 まだ、戦火にも汚されていない、自然に恵まれた、素晴らしい環境、ボクは最高にゴキゲンでした。 

 しかも、随分離れているとは言え、陸軍航空隊の調布飛行場が有ったのです。 ボクは飛行機の爆音が聞こえると裸足で庭に飛び出し、訓練飛行や緊急発進するのを、飽きずに眺めていました。 

この飛行場に配備されている「 飛 燕 」のスマートな機体がボクは大好きで

「 大きくなったら絶対に、飛行機乗りになるんだ!」 と内心誓ったものです。

 

 しかし、ここでも物資の不足は深刻で、食品など全ての物が配給制となっていました。 お百姓さんたちは、米や野菜をいくら作っても供出しなければならない状態でした。 

 ボクたちが大好きなお菓子類や、真っ白いご飯さえも満足に食べられず、母が作った芋とお米が少しばかり入ったオカユ、オカズは大根の葉っぱとか芋のツル、それにタクアン、煮干くらいのもので、ボクはいつもお腹を空かせていました。 ボクが不服を言うと母は「 ボクたちの為に戦っている、戦地の兵隊さんは、もっと大変なのよ。 我慢して頑張ろうね!」といつも励ましてくれました。 

でも、都会に住んでいる人達と違い、良かったことは野草や川魚も手に入り庭の畑で野菜等を作って、少しだけでも自給自足出来た事です。

 

 商売の経験しかなかった母が、近所のお百姓さんに種や苗を分けて貰い、教わりながらも見よう見まねで必死になって、鍬を振るっていました。

にわか百姓のやる事ですから、失敗も多かったと思いますが、おかげで翌年には南瓜、芋、茄子、ホウレン草等の野菜を食べる事が出来ました。

 

 昭和18年の暑い夏も峠を越し、秋の気配も感じられる頃、とても悲しい出来事がありました。

上野動物園の動物、ボクの大好きなライオンやキリンさん、そして仲良しだった、あの三頭の象さんまでもが、空襲で檻が破れて逃げ出したら大変な事になると言うことで、みんな殺されてしまったそうです。 ボクはもう、トンキーたちに会えなくなったのかと、とても悲しくなり思わず泣き出してしまいました。 そして、ボクは「 トンキーたちの仇もとってやるぞ!」と改めて決心したものです。

 

 この年の10月、11月には神宮外苑競技場で「 学徒出陣壮行会 」があり、20万人もの学生さん達が出陣する事になったのです。

 この時、母の弟で明治大学に通っていた、忠男おじちゃんも志願して陸軍に入隊する事になり、母と一緒に雨の中を神宮外苑まで駆けつけました。

それはもう、物凄い熱気と国民の期待で会場は張り裂けんばかりでした。

数え切れないほど多くの学生さんたちが、きちんと整列し、雨に濡れながらも鉄砲を担いで勇ましく行進する姿を見て「 これで、もう日本は勝てるぞ!」とボクも小躍りして喜んだものです。