昭和19年代  空襲が激化!「 父の出征 」

 

 本土空襲は、昭和17年4月の東京、横須賀、神戸、川崎、名古屋、四日市以来、暫くなりを潜めていたようですが、この頃からアメリカ軍は木造家屋の多い日本本土を全て焼き尽くす焼夷弾を使った無差別攻撃に踏み切ったのです。

 

この年の、6月15日の八幡空襲を皮切りに、10月10日には那覇空襲、この那覇の空襲では、米海軍機のべ900機が沖縄全域に対して、米軍が始めて焼夷弾を本格的に使用しました。 那覇市では市街地の9割が焼失して市は壊滅し、死傷者は800人にのぼりました。      

 

10月25日には大村大空襲、東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠が有る長崎県大村市で、死者約500人とも言われています。  そして、11月24日は東京の武蔵野町に有る中島飛行機工場に対する空爆がありました。 

 昭和20年に入ると終戦まで、大きい空襲だけでも日本全土に70回以上も実施され、国民は毎日眠れぬ夜を過ごしたものです。 

 

 この頃にも、ボクは洋治と空襲なんか、どこ吹く風とばかりに、大きな電気蓄音機で大好きなレコード「 進め小国民!」などをかけてもらい、父が作ってくれた木製の鉄砲を担いで「 進め小国民 朗らかに元気よく 胸を張り 両手を振って前進だ・・・」と元気一杯で歌いながら行進したり、兵隊さんゴッコをしていました。

 

11月15日には、七五三のお祝いをしてもらいました。 ボクが5才そして洋治が3才、近所のお宮さんにお参りして、ボクは短剣を下げた陸軍の仕官さん、洋治はボクが3才の時に着た海軍大将の衣装を着て記念写真を撮りました。  洋治はとても喜んで「 脱ぎたくないよ~」とダダをこね、母は着替えさせるのに一苦労だったようです。

 

 昭和19年も残り少なくなり、銀杏の葉や紅葉の葉もすっかり落ちて、ボチボチ冬支度に入る、11月末のいつもより寒い初冬の朝のことです。

 

「 ごめんください! おめでとうございます!」と言う声と共に、突然、一枚の赤紙、召集令状が舞込んできたのです。

 当時、父は34才、あまりにも遅い召集でした。 この知らせを受けて、父は「 この年で召集されるとは、日本はもう駄目かもな~」と頭を抱え、母は声を殺して涙を流していました。

 ボクは父が憧れの兵隊さんになると言うことがとても嬉しくて、胸を張りたいような誇らしげな気持ちになりました。 しかし、母がなぜ泣いているのか、その涙の訳がボクにはわからず、大変不思議に思えたものです。

 

 それから数日後の朝、父は国民服を着て、戦闘帽をかぶり、日の丸の旗を肩から掛けて、玄関の前に立ちました。 表にはもう、近所の人達が大勢見送りに来ていて、母が皆に丁寧に挨拶していました。

そして、町内会長さんの挨拶の後、皆で日の丸の旗を振りながら「 バンザイ! バンザイ!」と大きな声で叫んでいました。

それから、父を先頭に皆で行列して「 勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは・・・」と勇ましい軍歌を歌い、日の丸の旗を振りながら調布の駅のホームまで送っていったのです。 ボクも勿論、父母の制止も聞かずに人ごみに紛れ込み、元気一杯に大声で歌い、旗を振りながら駅までついて行きました。 大勢の人達に見送られての父の出征、ボクは最高に晴れがましい気持ちになっていました。

 そして、ボクも大きくなったら、父のように日の丸を背負って、海軍の航空隊に入り、鬼畜米英をやっつけてやるんだ! と固く心に誓ったものです。

 

 しかし、後で母には随分𠮟られました。 父が「 ボウズだけは決して、見送りにやるなよ!」と母に厳しく言い残していたそうです。

 

 年の瀬を迎えた12月には、例年にない寒さで大晦日から大雪が降り、あたり一面、銀世界のお正月を迎えました。 お餅はお隣さんから、いくつか分けてもらい、鏡餅はボクと洋治でお庭に沢山積もった雪を丸めて作りました。 小さなお餅が一個だけ入ったお雑煮、そしてお魚の干物、お野菜の天ぷら、それに干し柿とミカン、それに矢張りお隣から頂いた、保存食のイナゴの佃煮、でもこれは羽や足、目がまともに付いていたので何だか怖くて、ボクも洋治も食べられませんでした。


 父がいない、母とボクと洋治、それにお手伝いのフッチャンの4人だけのお正月でしたが、軍国カルタや小国民双六、福笑いなどをして、この日ばかりは、皆で楽しく過ごしました。