S.19' 6月19日  マリアナ沖海戦!                            

10月25日 神 風 特 別 攻 撃 隊 を 編 成

 昭和19年代に入ると、ボクたちの生活も益々厳しいものになってきました。

国民は飢餓と闘う毎日がやってきたのです。


この年の正月から「 戦争に正月なし!」、前線では死闘が続けられており、年末年始は心の緩みがちな時期だけに、本土空襲のおそれもある事を思えば安閑としてはおられない、都民に決戦正月の心構えと自粛を警視庁から強く要望されたのです。 お正月とは言え、昼間の飲酒は禁止、鏡餅などはもってのほか、風呂は深夜に入る、等と厳しく指導されたのです。 


この年から、陶磁器製の鏡餅も売り出されました。

 でも、ボクの家では、父がどこからか小さな餅を何個か都合してきて、庭に植えている少しばかりの野菜を入れた、お雑煮を食べてコッソリとお正月を祝いました。

 戦況も日増しに厳しくなり、6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦では、日本軍はまたもや大敗北をしてしまったのです。

 マリアナ沖海戦とは、マリアナ諸島に侵攻するアメリカ軍の空母機動部隊を日本の連合艦隊が総力を上げて迎撃すると言う作戦でした。 

 しかし、本作戦では、日本は「アウトレンジ戦法」による航空作戦を行いましたが、アメリカからマリアナの七面鳥撃ちと揶揄される一方的な敗北となり、日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を完全に喪失しました。

 

 マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西部太平洋の制海権と制空権は完全に米国の手に陥ちてしまったのです。

 その結果、輸送経路を完璧なまでに絶たれた日本軍は、サイパン島守備隊全滅、死者の数は軍人4万人、民間人約1万人、8月11日にはグァム島守備隊の玉砕と次々に危機的な状況に追い込まれて行きました。

 

 そして、手足をもがれた状態の日本軍は、遂にヤケクソとも思える、あの作戦に突入していったのです。 

   それは、必死必中の精神を兵器にした特攻作戦でした。

10月25日には零戦に大きな爆弾を装着して、敵艦に体当たりする「 神風特別攻撃隊 」が編成されて、零戦9機がレイテ沖に出撃して行きました。

戦果は空母1隻を撃沈、2隻を大破させると言う成果でした。

 これを機に、体当たり攻撃を「 制式化」していったのです。 陸軍でも67重爆撃機に800k爆弾を搭載した特別攻撃隊を編成しました。

 

 昭和20年1月までに航空特攻は、海軍が106回(約440機)、陸軍が62回(約400機)も実施したのです。

 海軍では人間魚雷「 回天 」と言うのも製作されました。

これは、1550kのん爆弾を一人で操縦し、敵艦に体当たりする潜水艦のようなものでした。 その他に、苦肉の策で色々な特攻兵器や新兵器が考案されました。 中でも最もユニーク(?)なのが、風船爆弾です。 これは特攻兵器ではありませんが、和紙を張り合わせた直径10m、重量80k程の気球に爆弾、焼夷弾を吊り下げたもので、女子挺身隊や女学生を動員し、不眠不休で作らせたものです。 これを「 ふ号作戦 」として、偏西風に乗せてアメリカ本土に向けて飛ばしたのです。

 

 昭和19年11月3日から20年の春までに、計9600発程を打ち上げて、そのうちの1000発程がアメリカ本土に到着したそうですが、成果はほとんどなかったそうです。

 

 この年、8月には閣議で「 一億国民総武装 」を決定しました。

そして、第一次学童集団疎開が始まりました。 学童疎開とは、都市に住む小学生達を親元から遠く離れた、地方等に一時避難させて集団生活をさせると言うものです。 

 

 文部省の調査では昭和20年までに東京、神戸、名古屋など13都市から、指定された疎開先の農村や、沖縄、島嶼部、東北地方などへと疎開させられた児童の最終的な人数は80万人にものぼる推定されます。

 政府発行の「 週報 」は、8月2日号、9日号の2回にわたり「 学童疎開問答 」を掲載し、学童疎開の徹底を呼びかけました。

 そして、疎開の目的として「 都市民が大都市を防衛して、戦力増強に邁進できるため 」と「 児童を安全な場所に保護しながら、皇国民練成の基礎教育をすること 」の2点をあげたのです。

 こうして、学童達にも親と離ればなれの辛い生活を強いられる毎日が始まったのです。


 残された親達は勇気を振り絞り「 一億国民総武装!」を旗印に、隣組や軍部の掛け声で毎日のように、防火訓練や竹槍訓練に明け暮れ、空き地や庭に防空壕を掘り、いつ焼夷弾が落ちてくるか分からない、二階の天井は一斉に剥がしました。 そして、火災に備えどこの家でも直径1m位のコンクリート製の防火水槽を準備しました。

 でも、本当は竹槍で敵の銃弾やB29爆撃機に勝てるとは思っていなかったのです。 「 撃ちてし止まむ!」と言う軍の方針で、女子供から老人まで、全ての国民が総戦力として、最後の一人になっても戦い抜くぞ! と言う悲壮な決意と覚悟だったとおもいます。