昭和20年  佐賀に疎開 (2)

 

 その家は、バスも通る広い道路に面していて、少し離れた堤防に向かう緩やかな坂を上ると直鳥橋と言う、大きな橋が架かっていました。 橋の下には広い大きな川が流れ、橋の上から辺りを見回すと、そこにはどこまでも広がり、遥か遠くまで見渡せる程の田圃や畑が広がっていました。

ボクは一瞬、心が洗われたような気がしていつまでも見ていたいような気持ちになりました。 そして、ボクたちが住むお家の周りには、大きな農家が数軒並んで建っていました。

 

  ところが、ボクたちが住む家は借家ではなく、間借りだったのです。 玄関から廊下を横切った所にその部屋はありました。 

 広い廊下は付いていましたけど、六畳一間位の狭い部屋、

母が「 このお部屋で、戦争が終わるまでは、みんな一緒に暮らすのよ。」と言いながら襖を開けると、そこには4人程の子供とオバチャンが座っていました。 母が丁寧に挨拶をし始めましたので、ボクも慌てて座り、挨拶しました。

 その当時はあちこちから、家を無くして疎開してくる人達がとても多く、間借り生活をするのが、ごく当たり前の時代だったのです。

 ボクたちは、みんなと直ぐに仲良しになりました。

 一番上のお姉ちゃんは中学3年生、二番目のお兄ちゃんは中学1年生、その下には小学4年生位のお兄ちゃんと、ボクと同い年位の女の子がいました。 みんな北九州の方の空襲で家を焼かれて、最近疎開してきたそうです。

 

 ボクたちは、食事の時と夜寝る時以外は、襖を全て開け放ち、広くなった部屋で幼稚園や小学校みたいに大騒ぎして遊んでいました。 「 うるさいから、少し静かにしなさい!」

と言う母たちの声も、何処吹く風とばかりに楽しく走り回ったりしていたものです。

 お兄ちゃんたちは、魚釣りがとても上手で、お庭の畑でミミズなどを捕まえ、それを餌に、川で鮒や鯰、たまには大きな鯉や鰻なども釣ってくれました。 ボクは魚釣りが出来ませんでしたので、いちばん下のお兄ちゃんと、田圃でタニシやドジョウ等を追っかけて一日中裸足で走り回っていました。

 調布や佐世保に居る時は、生きている魚等は殆んど見た事もなく、たまに配給になるメザシか硬い干物ぐらいでしたので、毎日のように新鮮なお魚を食べられる、ここでの生活は本当に贅沢で極楽のようでした。

オバアチャンと征三(終戦後)
オバアチャンと征三(終戦後)

 瞬く間に一ヶ月ほどが過ぎ、うっとうしい梅雨の季節も明けて、蝉の大合唱が聞こえ始めた、7月末頃には洋治の恐怖症も大分治まり、一人遊びも出来るようになっていました。

そして一番下のお姉ちゃんとお手玉やオハジキなどをして、良く遊んでいました。 征三はこのころ、やっと寝返りもうてるようになり、少しだけですが、ハイハイも出来るようになっていました。 征三がハイハイを始めると、家族みんなで「 ここまでおいで! ここまでおいで!」と手を叩き、大騒ぎして喜んだものです。