S.20' 2月16日  調布空襲!(1)

 

 昭和20年に入ると、正月気分も抜けやらないうちから警戒警報のサイレンが毎日のように鳴り響くようになったのです。

 前年11月24日の東京空襲に続いて、1月27日には、またもやB29爆撃機、72機が東京、有楽町、銀座地区を空襲。 450人ほどが亡くなったそうです。

 

 これを境に、米軍は日本本土を全て焼き尽くす、焦土作戦を日本全国に展開していったのです。

 事実、夜となく昼となく不気味な警戒警報のサイレンが鳴り響き、その度にボクたちは慌てて防空壕に逃げ込んだものです。

 

 この頃、洋治は恐怖症とやらにかかり、母やフッちゃんの傍から離れず、飛行機の爆音やサイレンの音が聞こえると怖がって、火がついたように泣いていました。  その度にボクは、「 ここは大丈夫だよ。もうすぐお父様たちが、やっつけてくれるからね。」と、洋治を抱きしめて慰めていました。

 

 しかし、ここも次第に安全な場所とは言えなくなってきたのです。

離れているとはいえ、調布には陸軍航空基地や飛行機の部品を作っている工場がいくつも有ったからです。

 

2月16日、17日には中島飛行機武蔵製作所と調布飛行場を狙った爆撃がありました。 

 

 この日の空襲は、早朝7時20分頃サイレンが鳴り「 小型機数10機、房総半島に来襲せり。」と言うラジオ放送があり、間もなく遠くの方で、けたたましい爆音と艦載機ムスタングによる爆弾の破裂する音、低空飛行での無差別な機銃掃射の音、日本軍の高射砲の迎撃音などで静かな調布の朝も、一変して壮絶な戦場と化したのです。 

 ボクたちは、慌てて庭先の父が作った防空壕に飛び込みました。

でも、母は大きなお腹を抱えて、狭い防空壕に入るのが大変だったらしく、洋治を抱いたフッチャンに支えられて、やっと逃げ込むことができたのです。 その時、間一髪のタイミングで敵のグラマンが物凄いスピードで急降下し、物凄い爆音と共に、機銃掃射を仕掛けてきました。

弾はお隣の屋根を突き破り、ボクの家の裏の田んぼまで、凄い土煙を上げて続いていました。 

 母は、「 命拾いをしたね!良かったね~」と涙を流していました。

 

 この頃の母は、日増しにお腹が大きくなって、体調もあまり良くないのか床に臥すことが多くなり、家事をしながらの歌声もあまり聞けなくなっていました。

 

 ボクたちが寝るときにも、いつも歌ってくれていた、子守唄や昔話も少なくなり、ボクたちは内心とても不満に思っていました。

でも、たまに布団の中や家事をしながら、涙を流している母を見ると、とても、お話をしてとは言いにくかったのです。

しかし、大きな楽しみもありました。 母のお腹には、間もなく生まれる赤ちゃんが入っていたのです。

 

 いつ生まれるか、いつ生まれるかと期待し、弟だったら良いのになと洋治と二人で、胸を膨らませていました。

 父が出征する前、「 もし、男の子だったら、征三。 女の子だったら、お前の好きな名前を付けていいよ。」と母に言い残していたそうです。 赤ちゃんは、生まれる前から名前が付いていました。

 

ボクたちは、「 征三、早く生まれておいで~!」といつも声をかけ、母のお腹を触って励ましていました。